流れの構成
山笠の歴史
760余年の伝統を誇る博多祇園山笠

山笠の起源については諸説がありますが、一般には1241年、博多の承天寺の開祖・聖一国師が、疫病を鎮めるために人々が担ぐ施餓鬼棚に乗って甘露水(祈祷水)をまいたことが始まりと言われています。


舁き山は7つの流ごとに1基ずつ作られ、流ごとに舁かれます。流とは、いわば町の自治組織で、同時に山笠を運営する単位です。博多にこうした組織ができたのは、1587年に豊臣秀吉が行った「太閤町割り」と呼ばれる区画整理によるものです。秀吉はさらに楽市楽座などの施策で博多町人の商業活動を保護しました。山笠は博多商人による経済的バックボーンのもと、堅固な自治組織によって、祭りとしての形態を強めていくのです。


当時の山笠はゆっくり巡っていたようですが、現在のような「追い山」が誕生したのは、江戸時代の1687年に起こった“騒ぎ”がもとになっています。土居町(土居流)から堅町(恵比須流)に嫁いだ若妻が、夫とともに正月の里帰りをしたところ、酔った男たちがやっかみ、夫に桶をかぶせてしまいます。これを知った堅町の男たちには恨みが残り、夏の山笠では双方の山笠が追いつ追われつの競争となり、これが追い山の始まりとなったのです。


舁き手のいでたちも、初めは締込みだけの裸に近いものでした。明治時代に西洋文化が入ってくると、政府はお尻丸出しの山笠が野蛮に映ったのか、あれこれと理由をつけて禁止しようとします。町側も知恵を絞り、「お尻丸出しが悪いなら法被を着ればよい」と、全員が水法被を着用して切り抜けました。


飾り山と舁き山に分離されたのもこの時代です。本来は一体のもので、高さのある山笠を舁いていましたが、明治末に電線が張り巡らされたことから、それまでの山笠を飾り山として残し、別に高さを抑えた山笠を作って舁き回るようになったのです。


山笠は伝統を守りながら時代の変遷とともに工夫され、今日まで伝承されています。

山笠の流れの構成

山笠は、現在7つの流れで構成されています。
流れは博多地区のいくつかの町で構成され、1つの流れで1本の山笠を運営しています。
山笠のしきたりや運営方法は、それぞれの流れや各町で異なります。

山笠マップ
中洲流(なかすながれ)

戦後に生まれた流だが、戦後から高度経済成長期の間に起こった流の統廃合に左右されることなく続いてきた。舁き手には福岡への転勤族も少なくない。

大黒流(だいこくながれ)

博多川右岸一帯の12町で構成される。旧七流から続く伝統があり、昔ながらのしきたりも色濃く残っている。流の名称は、博多のもうひとつの祭り「博多松ばやし」の大黒天(大国主命)に由来する。

土井流(どいながれ)

櫛田神社前の土居通りに面した10町で構成される旧七流の一つ。当番法被、水法被とも各町独自のデザインで、ほとんどが久留米絣を用い、“粋”との評判がある。

西流(にしながれ)

昭和41年の町界町名整理を機に、いくつかの流れが加わって成立した。伝統を守り、長老や役員を敬う習慣がしっかり継承される一方、若手衆による勉強会など新しい行事も始まっている。

東流(ひがしながれ)

旧七流の東町流を母体に、昭和41年にいくつかの流が合流して発足した。JR博多駅から北に延びる大博通り東側がその区域。舁き山と飾り山の台部分が共有となっている。

恵比須流(えびすながれ)

古くからある流で、旧七流の一つ。ドーナツ化現象により舁き手の数は減少傾向にあるものの熟練した舁き手が多く、櫛田入りではその真髄を発揮する。

千代流(ちよながれ)

中洲流と同じく戦後に生まれた流。この地域には集合住宅が多く、山笠参加者の数は圧倒的に増えている。子供山笠など後進の育成にも力を注いでいる。