記念碑・文学碑・石碑・墓

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  • 蒙古塚
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    福岡市東区志賀島

    文永・弘安の役(1274・1281年)で戦死した蒙古兵士の供養のために建てられたもの。昭和2年に建設された石碑で、裏には7基の板碑がある。また張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられている。海を隔てた向こうには、今津の美しい白砂を見ることができる。
  • 飯盛文殊堂
  • 092-811-1329
    福岡市西区飯盛字文殊前672

    旧早良郡飯盛・吉武・四箇・金武・田村・羽根戸・野方からなる、七ヵ村の惣社飯盛神社の神宮寺真教院の跡地に建つ。鎌倉時代には奈良西大寺の末寺であり、この地方の真言律宗の中心として栄えた。堂内には元弘3年(1333)仏師堪幸作の文殊菩薩騎獅像(市指定文化財)が安置されている。堂内に湧く『智恵の水』には受験へ...
  • 勝軍地蔵堂
  • 福岡市東区箱崎6-7-13

    元寇防塁の南約400m、道路とJR鹿児島本線の間にある地蔵堂。寛永8年(1631)に福岡藩二代藩主・黒田忠之が建立し、明治42年(1909)に九州大学工学部が建設される際、この地に移転した。この堂に鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、小松(平)重盛が育王山(中国浙江省の山で巡礼地)に砂金を送り、その帰船にこの菩薩像を乗...
  • 浄満寺(亀井南冥・昭陽の墓)
  • 福岡市中央区地行2-3-3

    寛保3年(1743)、医家の子として生まれた亀井南冥は、上方に遊学し、医学を山脇東洋の高弟・永富嘯庵に学んで帰国。21歳で朝鮮通信使と詩文の応接をなし、世間の人々を驚かせた。天明4年(1784)、藩校甘棠館の創設に伴い館長に迎えられて多く人材を育成し、志賀島から金印が出土したこの年に、『金印弁』を著してその保...
  • 濡衣塚・康永三年銘梵字板碑
  • 福岡市博多区千代3-2-9(石堂橋そば)

    聖武天皇の頃(724~749)、筑前国司・佐野近世の娘は継母に無実の罪を着せられ、近世の手によって殺された。これが「濡れ衣」の由来となった出来事である。ここはその娘を供養した塚と伝えられている。高さ165cm、玄武岩製の板碑と呼ばれる中世特有の石造物で、康永3年(1344)に建立。正面の太く刻まれた3つの梵字は上...
  • 福岡藩主黒田家墓所
  • 福岡市博多区千代4-7-79(崇福寺内)

    黒田家の菩提寺だった崇福寺の境内。藩祖・黒田如水、初代・長政、四代・綱政、六代・継高、七代・治之、九代・斉隆の歴代藩主とその一族、また直方藩主などを中心に祀っている。昭和25年(1950)に改葬工事が行なわれ、二十数基あった石塔は如水などの一部を除き廃された。現在は12基の石塔が残されている。福岡藩の歴史遺産...
  • 米一丸石造九重塔
  • 福岡市東区箱崎6丁目

    花崗岩製で、高さ4.2mの九重の石塔。鎌倉末期に造られたものと推定。基礎は盤状方石、塔身は高さ・幅ともに50cmの立方体で、四方に如来像を浅い花頭形龕中に浮彫している。鎌倉時代に主君の奸計にかかって箱崎松原で自害したという、悲劇の主人公・米一丸の供養のために建てられたとされる。県指定文化財。
  • 謝国明の墓
  • 福岡市博多区博多駅前1丁目

    日宋貿易で活躍した謝国明は宋出身の帰化人で、櫛田神社周辺に住んでいた。また、小呂島を領有し、「船頭」「綱首」と呼ばれていたところから、船頭を兼ねた資産家の商人だったとみられる。仁治3年(1242)に承天寺を創建し、宋から帰国した聖一国師(円爾弁円)を迎え開山した。御笠橋手前、クスノキの大木の梢の下に、...
  • 宮崎安貞の書斎・墓
  • 福岡市西区周船寺381-14

    宮崎安貞(1623~1897)は、安芸(広島県)藩士・宮崎儀右衛門の二男。25歳の時、二代藩主・黒田忠之に山林奉行として仕えたが、まもなく辞職した。諸国を巡歴して農業技術を学んだ後、筑前国女原村に住み、農業の実践・研究・指導に専念。宮崎開などの新田開発も指導しながら、元禄9年(1696)に日本初の体系的な農業技術...
  • 石堂地蔵尊
  • 福岡市博多区千代3-18-3

    「刈萱(かるかや)石堂丸物語」発祥の地とされる地蔵堂。「子授け地蔵」や「刈萱地蔵」とも呼ばれている。
  • 日蓮銅像
  • 092-651-1259
    福岡市博多区東公園7-11

    岡倉天心が明治37年に製作。高さは11.55メートル、重さは75トン。像となっている日蓮聖人は、文応元年(1260年)「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)を書いたとされている。また、元の襲来をいち早く予言して、当時の執権であった北条時頼に告げたと言われている。
  • 稲光弥平顕彰の碑
  • 福岡市中央区春吉2-1

    那珂川にかかる住吉の参宮橋は、洪水のたびに流失していた。春吉に住む稲光弥平は橋が流される原因を究明して、安政2年(1855)川の中央に人工島を築き、橋をかけて流出を防いだ。この石碑は、昭和6年にその功績を末永く顕彰するため設置されたものである。
  • 川上音二郎生誕地
  • 福岡市博多区古門戸町-3-8

    元治元年(1864)博多の商家に生まれ、自由民権の書生芝居で世の中を風刺したオッペケペー節で活躍した。外国でも日本劇を演じ、劇作をするなど新派劇の創始者となり、貞奴(さだやっこ)夫人とともに演劇史上に大きな功績を残した。
  • 幻住庵
  • 福岡市博多区御供所町-7

    延元元年(1336)の創建で、無隠元晦(むいんげんかい)による開山です。
    以前は、那珂(なか)郡馬出(まいだし)村(福岡市東区馬出)にありましたが慶長(けいちょう)末期から正保(しょうほ)初期にかけて博多の豪商、大賀宗九(おおがそうく)・宗伯(そうはく)父子が現在地に移し宗九を開基としました。庵内の虚白院(きょはくいん)は文...
  • 博多町家寄進高灯籠
  • 福岡市博多区中洲1-7

    明治32年、博多誓文晴(払)の創始者漬物屋八尋利兵衛(やひろりへい)が住吉から中洲付近まで開発し、遊園地「向島」を開園した。その開園記念に建設された灯籠で、昭和29年清流(せいりゅう)公園内に移された。灯籠には商屋の家号が刻まれていて、当時の博多経済界を知る上で貴重な民俗資料である。
  • 吉実塚
  • 福岡市博多区吉塚1-16

    筑後星野の城主星野吉実は、その敵高橋紹運を四王寺山の岩屋城(太宰町)に滅ぼした。その後、若杉山の高鳥居城(篠栗町)の守護にあったが、豊臣勢である立花宗茂のため落城し、天正14年(1586)に自刃した。その首を千代の松原であった現在地に埋めて吉実塚といったが、のち、この附近は吉塚と呼ばれ地名になった。ま...
  • 名島帆柱石
  • 福岡市東区名島1-27

    古第三紀志免層群名島層の砂山、礫岩層(れきがんそう)中に含まれる珪化木(けいかぼく)で、9個の円柱状石からなる。香椎宮の社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の時使用した船の帆柱が化石になったものとされている。波打際の岩の上に輪切りにされた数個の丸い柱状の石が時をしのばせるように並んでいる。
  • 長塚節逝去の碑
  • 福岡市東区馬出3

    長塚節(1879~1915)は正岡子規に歌の指導を受けたアララギ派の歌人であり、作家としては「土」を書いて農民文学を確立した。明治45年、喉頭結核を患い、治療のため久保猪之吉博士を頼って九州大学病院に入院したが、大正4年37歳でなくなった。
  • 利休釜掛の松
  • 福岡市東区馬出3

    天正15年(1587)豊臣秀吉は、九州遠征のとき筥崎宮に20日余り滞在しました。
    この間、小寺休夢(こでらきゅうむ:黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、千利休や神屋宗湛(かみやそうたん)らと茶の湯の会を催しました。
    その時、秀吉の命によって利休は、この地の松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉をかき集め...
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