YokaNavi Concierge(Tourist Guide)
太宰府あれこれ
いまも見える古代太宰府史蹟の四本柱
完戸 鷯 2008.04.22

水城跡遠景(右側に濠があった)

大宰府政庁正殿跡の礎石(千年の時を経ています)

観世音寺講堂

戒壇院

太宰府天満宮本殿
一本目の柱 水城跡 大野城跡(いずれも国指定特別史跡)
日本書紀に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城という」(天智3年、664年)とあります。太宰府市の西端近くに長く横たわる樹木の帯がこの「水城跡」の土塁です。長さ1.2km、高さ14m、基底巾80m。この北側に巾60m、深さ4mの濠があり、底の木樋を通して水を流し溜めていました。
水城跡の東に繋がる四王寺山。この山全体が日本最古の朝鮮式山城「大野城跡」です。水城ができた翌年665年に築かれたと日本書紀にでています。いまも、山の尾根8kmほどに土塁が、谷には堅固な石垣が4ヶ所、窪地には70棟余りの高床式木造倉庫の礎石群が遺っています。
663年に百済救援の日本水軍が白村江で大敗した直後に築かれた九州防衛の第一線。太宰府史蹟のルーツです。
二本目の柱 大宰府政庁跡(国指定特別史跡)
“遠の朝廷(とおのみかど)”といわれた「大宰府政庁」。太宰府史蹟の本柱です。
701年に施行された「大宝律令」に基いて置かれた行政府です。役目は①大陸との外交、②九州、壱岐、対馬の内政、③周辺防備。とくに大陸への玄関口として、初めは外交の、後には貿易の要でした。役所が15ヶ所ほど、令に基づく役職が約50、二千人近い役人がいました。いま440個の礎石が整然と並んでいる「大宰府政庁跡」はその中核の役所で、朝堂院風の堂々とした建物があり、真中の広場で外国からの使節を謁見する儀式が行われていました。威厳あふれる対応であったと思われます。後で菅原道真公がここを“都府楼”と呼んでいます。
鎌倉時代から平安末期にかけて約500年間、大宰府は“賑やかな一都会(続日本紀)”でした。また初期には幹部にエリートが赴任して、万葉に350首を超える和歌を遺す文化都市でもありました。壮大な「古都大宰府」があったのです。
三本目の柱 観世音寺・戒壇院
百済救援軍の総帥で661年に亡くなった母堂斎明天皇の菩提を弔うために、天智天皇の勅願で創建が始り、約80年後の746年に落慶法要が行われました。300m四方の寺域に伽藍が並ぶ権威を誇る「府の大寺」で、とくに761年に鑑真和上が最高位の僧侶の戒律を授ける子院として戒壇院を附設してからは、西国一の格式高い寺院となりました。
ただ、いま遺っている創建当時のものは国宝の梵鐘(690年代鋳造、日本最古)だけで、五重の塔心柱や講堂、南大門、僧坊の礎石に当時の面影が偲ばれます。いまの寺院は江戸元禄時代再建のものです。
また宝蔵庫には平安時代、鎌倉初期の仏像が18体安置されています。いずれも国の重要文化財で、この寺を大切にし続けてきた人々の信仰の証です。
四本目の柱 太宰府天満宮
学問の神様、菅原道真公がご祭神です。
大宰府政庁が置かれた200年後、901年、平安時代の半ばに、時の右大臣道真公が藤原時平の讒言によって、大宰権帥(長官代理)に左遷されてきました。そして57才から59才まで2年間余、配所の榎社(南館)で過ごして903年に亡くなりました。そのご遺骸を葬り、そこに905年に祠を建てました。それが天満宮の始りで、ご本殿がご墓所と云われています。
その後、道真公は濡れ衣が晴れて、20年目に右大臣に復権し、90年目には太政大臣を贈られ、天満宮は栄えてゆきます。いまのご本殿は、天正15年(1591年)当時の筑前国主小早川隆景が豊臣秀吉の命により再建した社殿で、豪壮華麗な桃山時代の粋を極めた代表的な建造物で、国の重要文化財に指定されています。
〔古代の大宰府政庁に関連する場合は「大宰府」、場所を示すときは「太宰府」が使われます〕
日本書紀に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城という」(天智3年、664年)とあります。太宰府市の西端近くに長く横たわる樹木の帯がこの「水城跡」の土塁です。長さ1.2km、高さ14m、基底巾80m。この北側に巾60m、深さ4mの濠があり、底の木樋を通して水を流し溜めていました。
水城跡の東に繋がる四王寺山。この山全体が日本最古の朝鮮式山城「大野城跡」です。水城ができた翌年665年に築かれたと日本書紀にでています。いまも、山の尾根8kmほどに土塁が、谷には堅固な石垣が4ヶ所、窪地には70棟余りの高床式木造倉庫の礎石群が遺っています。
663年に百済救援の日本水軍が白村江で大敗した直後に築かれた九州防衛の第一線。太宰府史蹟のルーツです。
二本目の柱 大宰府政庁跡(国指定特別史跡)
“遠の朝廷(とおのみかど)”といわれた「大宰府政庁」。太宰府史蹟の本柱です。
701年に施行された「大宝律令」に基いて置かれた行政府です。役目は①大陸との外交、②九州、壱岐、対馬の内政、③周辺防備。とくに大陸への玄関口として、初めは外交の、後には貿易の要でした。役所が15ヶ所ほど、令に基づく役職が約50、二千人近い役人がいました。いま440個の礎石が整然と並んでいる「大宰府政庁跡」はその中核の役所で、朝堂院風の堂々とした建物があり、真中の広場で外国からの使節を謁見する儀式が行われていました。威厳あふれる対応であったと思われます。後で菅原道真公がここを“都府楼”と呼んでいます。
鎌倉時代から平安末期にかけて約500年間、大宰府は“賑やかな一都会(続日本紀)”でした。また初期には幹部にエリートが赴任して、万葉に350首を超える和歌を遺す文化都市でもありました。壮大な「古都大宰府」があったのです。
三本目の柱 観世音寺・戒壇院
百済救援軍の総帥で661年に亡くなった母堂斎明天皇の菩提を弔うために、天智天皇の勅願で創建が始り、約80年後の746年に落慶法要が行われました。300m四方の寺域に伽藍が並ぶ権威を誇る「府の大寺」で、とくに761年に鑑真和上が最高位の僧侶の戒律を授ける子院として戒壇院を附設してからは、西国一の格式高い寺院となりました。
ただ、いま遺っている創建当時のものは国宝の梵鐘(690年代鋳造、日本最古)だけで、五重の塔心柱や講堂、南大門、僧坊の礎石に当時の面影が偲ばれます。いまの寺院は江戸元禄時代再建のものです。
また宝蔵庫には平安時代、鎌倉初期の仏像が18体安置されています。いずれも国の重要文化財で、この寺を大切にし続けてきた人々の信仰の証です。
四本目の柱 太宰府天満宮
学問の神様、菅原道真公がご祭神です。
大宰府政庁が置かれた200年後、901年、平安時代の半ばに、時の右大臣道真公が藤原時平の讒言によって、大宰権帥(長官代理)に左遷されてきました。そして57才から59才まで2年間余、配所の榎社(南館)で過ごして903年に亡くなりました。そのご遺骸を葬り、そこに905年に祠を建てました。それが天満宮の始りで、ご本殿がご墓所と云われています。
その後、道真公は濡れ衣が晴れて、20年目に右大臣に復権し、90年目には太政大臣を贈られ、天満宮は栄えてゆきます。いまのご本殿は、天正15年(1591年)当時の筑前国主小早川隆景が豊臣秀吉の命により再建した社殿で、豪壮華麗な桃山時代の粋を極めた代表的な建造物で、国の重要文化財に指定されています。
〔古代の大宰府政庁に関連する場合は「大宰府」、場所を示すときは「太宰府」が使われます〕

